お寺の掲示板
住職的
「12月の標語」解説
吉田松陰(1830ー1859)は、江戸時代末期に活躍した思想家であり、優れた教育者でもありました。吉田松陰が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)では、後の初代内閣総理大臣である伊藤博文や高杉晋作・木戸孝允など、わずか29歳で亡くなるまで、幕末維新や明治新政府で活躍した多くの志士を育てました。
さて、近年は「読書離れ」が指摘されていますが、その実態はどうなっているのでしょうか。全国学校図書館協議会が2023年6月におこなった調査によると、全国の小学生・中学生・高校生が1か月に読んだ本の冊数は、小学生の平均は12.6冊で、10年前の10.1冊と比べると2冊余り増えていて増加傾向にあります。中学生は平均5.5冊で、10年前の4.1冊から1冊余り増えていて、1954年に調査を開始してから最も多いそうです。高校生については、平均1.9冊でほぼ横ばいとなっています。
一方で、文化庁が2024年に16歳以上を対象におこなった調査では、1ヶ月に1冊も本を読まない人が6割以上いることがわかりました。これは、5年前の調査と比べて15%以上も増えています。実は「読書離れ」は子供ではなく、大人なのです。著書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を執筆した三宅香帆氏は、「読書で得られるような自分に関係ない情報を〈ノイズ〉として感じてしまう社会になっている」と指摘しています。現代はスマホやネットの普及で、膨大な情報量をわずかな時間で得ることができるようになりました。しかし、ネットで得た情報は、新しい情報が手に入れば、それ以前のものは必要なくなるため、次から次へと使い捨てられていきます。様々な基礎知識の積み重ねや、「行間を読む」といった感受性は、日々の読書を通して養われるのではないでしょうか。
合掌
住職的
「11月の標語」解説
今月は日本サッカー界のレジュンド「キングカズ」こと、三浦知良選手の言葉です。これは40歳前ぐらいにインタビューで語った言葉だそうですが、それから約20年経った57歳の今でも現役(ちょっと信じられません・・・)で活躍している姿を見ると、まさに有言実行、常に全盛期を更新されています。
一般的に「全盛期」というと、心身ともに最も充実している時期をいいます。スポーツ選手であれば、ほとんどの場合20代から30代にかけてがその時期にあたるのではないかと思います。女子の体操選手に至っては、17才がピークとも言われます。しかし、三浦選手が「これからが全盛期」と言えるのは、常に初心者のような好奇心と、サッカーに対する情熱を持ち続ける「心の持ち方」の大切さを教えてくれている気がします。
たしかに年齢を重ねると、若い頃のように身体が動かなくなってきます。そこで「若い頃はこうだったのに・・・」と過去の自分にとらわれてしまうと、どうしても考え方が後ろ向きになってしまいます。しかし、年を重ねていくということは、若い頃には気づかなかったことに目を向ける心が育てられていくということではないでしょうか。何気ない人のやさしさ、道端に生えている小さな花の存在、日々の生活など、何でもないことの中に大きな不思議を感じ、有り難さを感じさせていただくような心の眼を開いていくという事が、年を重ねていくことの素晴らしさだと思います。
そういえば私(住職)の師のおひとり、故・梯實圓(かけはし じつえん)和上は、80歳を過ぎてからでも、「今がいちばん育ち盛りや」と仰っていました。そう言える人生にしたいものです。
合掌
住職的
「10月の標語」解説
今年のタイガースは、後半の猛追惜しくも2位となりました。クライマックスシリーズを勝ち抜いて、日本一を目指してほしいものです。
10月はタイガース岡田監督の言葉です。現代は「評価社会」「成果主義」といわれてから久しく、人から評価されやすい目立った仕事ぶりを求めようとしがちです。
しかし、他人の評価や結果ばかりにとらわれていては、大切なものを見落としてしまいます。岡田監督の言葉は、目立つ派手なプレーよりも、たとえ目立たなくても送りバントや犠牲フライなど、与えられた場所でコツコツと取り組む姿勢が大切であることを教えてくれているように思います。
仏教に「
おのれをととのえ なすところ つねにつつしみあり。 かく おのれに克つは すべて他の人々に かてるにまさる。
ここでは「勝つ」ではなく「克つ」という字があてられています。「勝つ」は、相手がいて競争などで優位な結果を出すことです。一方で「克つ」は、自分の内面における葛藤を乗り越えるという意味です。たしかになかなか結果が出なければ、焦る気持ちが生じます。しかし、焦りは逆に「エラー」を呼ぶことになります。仏教の「精進」という教えを通して、他者との比較ではなく自らの内面を問うていく姿勢を大切にしたいものです。
合掌
住職的
「9月の標語」解説
今月の掲示板は、アナウンサーの古館伊知郎さんの言葉です。
世間的に「大人は人前で泣くものではない」という風潮があります。しかし、古館さんが言うように、人前で泣くことが決して弱いことではありません。実際に泣くことを我慢するより、泣いた方が様々な面でメリットは多いようです。その理由を①社会的、②感情的、③仏教的の3つの観点から見ていきたいと思います。
まず①社会的観点です。そもそも動物のなかで「泣く」のは人間だけだそうです。他の動物は「鳴く」ことはしますが、人間のように顔を歪めて涙を流し、その場にへたり込み体を震わせ、時には声をあげて「泣く」ことはしません。このような人間の「泣く」行為は、「他者からの共感や支えを引き出すための、社会的な信号の役目を果たすため」と指摘されています。
次に②感情的観点ですが、泣くことによってネガティブな感情やストレスが発散されて、精神的な落ち着きを生み出してくれるようです。現代のような評価が常につきまとう評価社会では、人はうかつに自分の失敗や悩みを他人に打ち明けることができません。それによって自分の評価が下がる危険性があるからです。ストレス社会となっている要因のひとつに、「泣くことができる場所」が不足しているからではないでしょうか。
そして③仏教的観点ですが、「人前で泣くものではない」という世間の常識は、言い換えれば自分が持っている「枠組み」です。
仏教では、無自覚にもっている枠組みを疑うことが大切であるとします。それは、自分の都合によって構築されている「こうあるべきだ」「こうでなければならない」という枠組みこそが、ストレスを生み出す原因になっていると仏教では説くからです。私たちは普段、そういった枠組みという鎖にがんじがらめになって生きているのではないでしょうか。
人前で泣けるということは、他人からどう思われているかより、自分の感情を出すことを優先しているということでもあるので、「枠組み」が柔軟な人であると言えそうです。
合掌
住職的
「8月の標語」解説
現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』から、紫式部(吉高由里子)に夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)が語っていた言葉です。
自分が思っている以外の自分とは一体どういう自分なのでしょうか。「住職的解説」ですので、仏教的な視点からみていきたいと思います。
ドラマの中で、宣孝が当時まだ珍しかった鏡を紫式部にプレゼントするシーンがありました。皆さんはどういう時に鏡を見るでしょうか。おそらく朝起きた時に髪の毛に寝ぐせがついていないか、出かける前に着替えた服装が変ではないか、お化粧をして人前に出られる顔になったか(すみません)など、自分の姿を確認するために鏡を見ますよね。もし鏡に映った自分の髪型や服装がイメージと異なっていたら整え直します。このように鏡とは現在の自分の姿を映し出し、もしそこでイメージと異なっていたら、「あるべき姿」に転換させていく役割があります。
中国の善導大師という僧侶は「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」と述べており、お経を鏡に喩えています。私たちが普段使う鏡は外見こそ写し出しますが、その人の内面までは写しません。しかし、お経に説かれている仏さまの言葉は私の内面性を教えてくださるものなのです。お経に映し出された私とは、自己中心的にしか生きることしかできず、確かなものなど何も持っていない存在であることが知らされます。同時に、そのような私こそが阿弥陀様の救いの目当てでもあると説かれます。こういった私の存在性は自己内省で気づくことはできません。光が当たることによって影ができるように、仏さまのさとりの言葉に触れることによって、「自分が思っている自分だけが自分ではない」ということが知らされのです。
お経という鏡によって非本来的な自分の姿が知らされると、これまでの傲慢な自己を反省し、仏法を基軸とする生き方にわずかながらでも転換されていくのかもしれません。
合掌
住職的
「7月の標語」解説
平和活動に従事し、ダライ・ラマ14世と並んで世界的な仏教者であったティク・ナット・ハン(1926-2022)は、お釈迦様が説かれた「縁起」の教えを、
「この一枚の紙のなかに雲が浮かんでいる」
と表現しました。一見は無関係にみえる「紙」と「雲」ですが、両者は深く関係していると言います。なぜなら雲なしには雨がなく、雨なしには樹木は育たず、樹木なしには紙はできないからです。さらに紙を作るには木を伐る人が必要であり、森や人間が育つには太陽の光が必要であり、というように、その他一切のものが一枚の紙と無関係ではないと言えます。
このように、世界のすべてのものは関わり合って存在しているのだというのが仏教の「縁起」という教えです。このように考えてみますと、本来「縁起」とは、世間でよく「縁起が良い・悪い」といった、ものごとの吉凶を意味する言葉ではないことがわかります。
「縁起」の教えは、数え切れないお陰さまによって「生かされている私」であるということを教えて下さいます。しかし、慌ただしい日々の生活の中では、自分と直接関係があることには気づけても、縁起(ご縁)の中で「生かされている」ということはつい忘れがちです。そして、私たちは目に見えないものは、「無い」ものだと思ってしまいます。案外、大切なことは目には見えないものです。
私たちの先輩方は、目に見えないご恩に気付き、そして感謝出来るようにと、お仏壇という目に見える形として家にご安置してくださいました。目に見えない「ご恩」や「お陰さま」に対して、お礼を申し上げる場所が家の中に据えられているのは有難いことです。
お仏壇の前に座ってお念仏を申し、お礼を申し上げる日暮らしをさせていただきましょう。
合掌
住職的
「6月の標語」解説
「あの人はイイ人だ、逆にあの人はあんまり…」と言ってしまうことがあります。でも考えてみれば、ひとりの人間を「イイ人」か「イヤな人」と分けているのは私の都合ではないでしょうか?
立川談志師匠が言っているように、私にとって都合が良ければ「イイ人」で、都合が悪ければ「イヤな人」になるわけです。このように、私たちは普段、物事をイイかイヤか、損か徳か、善か悪かに分けて判断しています。このような見方を仏教では「分別(ふんべつ)」と言います。
しかし、本来あらゆるものには「イイ」か「イヤ」かを分けるべき実体など存在しません。物事のあり様をあるがままに見ていくまなざし、これがさとりを開かれた仏さまがご覧になっている世界で、「無分別(むふんべつ)」と言います。
仏教においては煩悩という「分別がある」状態から、さとりの境地である「分別がない(無分別)」状態を目指します。ところが普段は「あの人は分別がある」と言えばホメ言葉ですが、「あの人は分別がない」と聞けばあまり良い印象を持ちませんので、逆の使い方をしているのが不思議なところです。
「イイ」か「イヤ」かという見方は、いわば自分が作り出した虚構に過ぎないわけですが、しかしその虚構によって自らを縛り付け、苦しんでいきます。つまり、苦しみの原因とは他の誰のせいでもなく、この私自身であることを喝破したのがお釈迦様だったのです。
「分別」の世界から離れることのできない身ではありますが、そんな自分であることに気づいていくことが「苦」と付き合う上で、とても大切なことなのです。
合掌
住職的
「5月の標語」解説
今月の言葉は、缶コーヒー「ジョージア」のCMに出てくるキャッチフレーズです。2014年から今年2月まで、10年にもわたって使われてきたフレーズですので、一度は目にしたことがあるかもしれません。
これまで様々なバージョンが流れてきましたが、私(住職)が特に印象に残っているのは、次のようなシーンです。
場面は道路の工事現場からはじまります。作業をしている二人の男性がスマートフォンを持ちながら「世の中、便利になりました。これを開発した人は凄いですね!」と言うと、次はスマホを開発した人に場面が変わります。そして開発者がお弁当を食べながら、「この美味しいお弁当を企画した人は凄い!」と言えば、次は弁当企画者が、「お弁当は素材が命、生産農家の方は凄い!」と言います。すると次に農家が、「素材は鮮度が命だから、これを運んでくれるドライバーさんに感謝だ!」と言うのです。そして最後にドライバーに場面が変わり、「この道を作ってくれて助かる!」と言いながら、はじめの道路を作っている作業員の目の前をトラックで走り去ります。その際、作業員がドライバーに向って「ご安全に~!」と手を振り、「他人事とは思えない。世の中は繋がっているんだな」と語ってCMが終わります。
この一連の流れの中で、それぞれ仕事のつながりが見事に表現されています。いや、一見は無関係に思われる仕事でも、実はつながっていないものは何ひとつないということを表しているのでしょう。これはまさに仏教の根本的な思想である「縁起」そのものです。
さらに、このCMでは肝心の缶コーヒーがほとんど出てこない所に、構成の妙を感じました。冒頭のキャッチフレーズを考案したコピーライターの梅田悟司氏は、「自分の持ち場をきちんと守りながら働く人への敬意を伝えたかった」と語っています。
つながりの実感は、敬意と感謝につながるのだと教えていただいたことです。
合掌
住職的
「4月の標語」解説
新年度がはじまる4月は「出会いと別れの季節」と言われますが、出会いには前向きな、別れには儚く後ろ向きなイメージがあるかもしれません。
特にそれが大切な方との今生での別れともなると、生木を裂かれるような思いになります。浄土真宗の僧侶で、本願寺第3代宗主の覚如上人(1271~1351)は『口伝鈔』という書物の中で、
人間の八苦のなかに、さきにいふところの愛別離苦、これもつとも切なり。
といわれ、人生には様々な苦しみがあるけれども、愛する人との別れが最もつらく、悲しいことであると述べられています。出会ったからには、いつかは必ず別れがあるということを頭では十分理解できていたとしても、いざそれが現実になってしまうと受け入れることができない自分がいることも事実です。
先立って往かれた方は、一体なにを遺してくださったのでしょうか。土地や財産でしょうか。いえ、そうではなく、故人様を思いながらお勤めさせていただくお仏事を通して、普段なかなか合わせようとしない手を合わせ、普段聞こうともしない仏さまの教えに耳を傾けさせていただく「仏縁」ではないでしょうか。
大切な方を見送った側(つまり私)も、いつかは必ず命を終えていかねばならない日がやってきます。そのような儚い命に、故人様が往かれた阿弥陀様の浄土から、「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」という救いの言葉が届けられています。
別れという深い悲しみであるからこそ、その中に人生を歩む上で大切なことを知らせていただけるように思います。人は出会いによって育てられ、別れによっても育て続けられ、深められていくのです。
合掌
住職的
「3月の標語」解説
先月2月6日、世界的指揮者の小澤征爾さんが亡くなられました。今月の言葉は、小澤さんのご子息で俳優の小澤征悦さんが、お父様を偲ばれる際に語られた言葉です。
亡くなった方は決して「無」になったのではない。たとえ眼に見えなくとも、亡き方が大切にされてきたモノを通して、その方と出遇っていくことができる、そんな味わい深い言葉だと思います。この征悦さんの言葉に触れたとき、浄土宗の開祖・法然聖人のエピソードが思い出されました。
ある日、弟子の信空上人が法然聖人に、「昔の偉いお坊さんにはみんな遺跡というものがあります。しかし今まで法然さまはお寺の一つも建てておられません。法然さまが往生された後、どこを遺跡とすればよろしいでしょうか?」と尋ねられました。それに対して法然聖人は、「念仏の教えを広めることが私の一生涯かけての役割であった。だから、念仏の声がするところは身分・貧富・賢愚を問わず、漁師の小さな小屋に至るまで、みな私の遺跡である」と仰いました。
法然聖人はお釈迦さまの教えを人生の拠り所とし、生涯にわたって「南無阿弥陀仏」と称名念仏をしながら生きてゆかれました。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀如来がすべての存在に対して、「あなたを必ず浄土へと生まれさせよう」と、私たちの煩悩を妨げとしない、さわりなき救いを告げる如来の喚びかけです。
お念仏を称えるということは、亡き方への追善ではなく、「南無阿弥陀仏」と聞こえるわが声を通して、お浄土へと導かれていることを知らされていく行為であるといえます。
そしてそのお念仏のなかに、如来の慈悲と、お浄土へ先立って往かれた方々ともお遇いすることができるのでありましょう。
合掌
住職的
「2月の標語」解説
今月は「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎の言葉です。牧野博士は、昨年のNHK朝ドラ「らんまん」で、主人公のモデルとなったことでも知られています。
野に咲くどんな植物にも固有の名前があります。しかし、それを無視して「雑草」「雑木林」などと人間にとって要不要だけで分類するのは、おこがましいという誡めの言葉です。牧野博士は何も雑草を抜くことを誡めているのではなく、人間の要不要という視点で「いのち」の価値を分けることへの警鐘ではないかと思います。私たちはものごとを見るとき、「自分の都合」という色眼鏡を通して見ています。善悪・損得・要不要というのは、すべて自分の都合で決めているにもかかわらず、その見方が正しいものだと思い込んで生きているのです。
ともすれば、私たちは人に対してもそのような歪んだ見方を適用しているのではないでしょうか。現代社会においては「役に立つ」か「役に立たない」かで人の価値を判断し、「役に立つ人」は社会の真ん中に、「役に立たない人」は隅の方へという二極化が進み、ますます生きにくい社会となっているように感じます。さらには他人だけでなく、自分に対しても若いときは「良」、年をとれば「否」と、年齢や容姿の善し悪しを分けることによって自身を苦しめていきます。
一方で、悟りの智慧を感得して、あらゆるいのちを分け隔てることなく、平等に尊い存在として見つめてくださっているお方を「仏さま」といいます。刑事ドラマでは、よくご遺体のことを「仏さま」とよんでいますが、その使い方は誤用です。私たちはいつも歪んだ見方をしているからこそ、正しい見方をしている仏さまの教え(仏教)に導かれつつ、自分の都合によって構築されている枠組みを点検していくことが大切なのです。
合掌
住職的
「1月の標語」解説
先日、とある研修会に参加し、大学で天文学を教えておられる先生の講演を聞いてきました。宇宙の始まりや、宇宙空間の広がりなど、未知なる世界のお話はいつ聞いても面白いものです。
宇宙の始まりは、ビッグバンという大きな爆発によって生じたといわれていますが、ビッグバンが起こる前のこの世は、一体どのような状態だったのでしょうか。
その答えは「わからない」そうです(一応の仮説は立てられています)。現在の宇宙物理学では、地球から何億光年という気の遠くなるような距離を隔てた宇宙空間から届くエネルギー成分を分析することが可能で、科学の進歩はめざましいものがあります。ところが、宇宙については人類の叡智を結集した科学の最先端をもってしてでも「わからない」と言わしめるわけですから、その壮大さを感じずにはおれません。
かつて相対性理論を提唱したアインシュタインは、「無限なものはふたつあります。それは宇宙と人間の愚かさ。前者については断言できませんが」と語っています。彼は無限なものに「宇宙」と「人間の愚かさ」をあげますが、「前者」、すなわち「宇宙」については有限性に可能性を残しています。希代の物理学者がこの世で唯一無限であると断定したもの、それは「人間の愚かさ」でした。
今この瞬間にも世界各地で争いが起こり、子どもを含む多くの命が失われています。自らの正義を振りかざし続ける人間の愚かさを目の当たりにする日々です。それと同時に、正義を握り争いのタネを持っているのは、他でもなく「この私」であるということも忘れてはならないでしょう。人間が謙虚になる第一歩は、自らの愚かさに気づいていくことですから。
合掌
住職的
「12月の標語」解説
現在のパレスチナ(ガザ地区)情勢に心を痛めています。子どもをはじめ、罪のない人々の命が奪われている現実に、何もできない自分の無力さを思い知らされます。
だからこそこのような事態に対して、「悲しみと怒りをもって見ている」というメッセージを出し続けたいと思います。戦争ほど愚かなものはありません。一刻も早く、尊い命が護られるように念願するばかりです。
今月は「インド独立の父」とよばれる、マハートマー・ガンジー(1869~1948)の言葉です。ガンジーは「非暴力」という理念のもとで活動を続けました。仏教の開祖であるお釈迦様は非暴力を説かれ、仏教徒にとって生きる上で大切な指針となっています。お釈迦様の言葉を伝える『法句経』には次のように説かれています。
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
「己が身にひきくらべて」というのは、暴力によって命を奪われる側に自分の身を置いてみなさいということです。命を奪われる恐怖や苦しみを、自分自身の恐怖や苦しみとして感じ受けとめるなら、奪う側に立つことはありえません。国家や集団が、戦争やテロのような暴力を行使するとき、必ず何らかの「正義」の名のもとに自らの行為を正当化しますが、そこには暴力を受けるひとつひとつの命に「己が身をひきくらべる」思いが欠けています。命を奪われる苦しみや痛みを思い、共感することが、「非暴力」という生き方を貫くための大切な視点になります。
現在のパレスチナ問題だけでなく、ウクライナなどの世界各地で戦争やテロが繰り返され、多くの尊い命が失われています。その悲しい現実に直面して、私たちがどのように対処すべきかを考えるとき、「苦しみ痛む生命の側に自分の身を置いて考え、行動しなさい」というお釈迦様の言葉は、この時代においてとても大事な意味をもっていると思います。
合掌
住職的
「11月の標語」解説
仏教には「
お釈迦さまの教えは、快楽をむさぼるだけでもダメ。禁欲して自分を追い詰めるだけでもダメ。快楽と禁欲、この両極端を乗り越えてバランス良く、生きてゆかなければ、人間が本来求める真理を見る目が養われないと語るのです。
ある日お釈迦さまは、「ソーナ」という弟子に対して次のような問いかけをしました。
釈「ソーナ。あなたは出家する前、琴を弾くのがとても上手だったらしいですね?」
ソ「その通りです」
釈「琴を弾く時、弦が硬いと良い音は出ますか?」
ソ「いいえ。良い音は出ません」
釈「では、弦が緩いと良い音がなるのですね?」
ソ「いいえ、単に緩くすれば良いというものでもありません」
釈「では、一体どうしたら良い音がなるというんだね?」
ソ「あまり緩めすぎてもいけません。張りすぎてもいけません。強すぎず、弱すぎず、琴と弦の具合を見て、しっかり調整しなければ本当に良い音はでません」 そこでお釈迦さまは、にこりと笑みを浮かべました。
釈「ソーナ、まさしくあなたが今言ったように、精進するのも張り詰めすぎると、気持ちが高ぶってしまいます。また反対に、緩みすぎても人を怠惰に貶(おとし)めるのですよ」
その言葉を聞いたソーナも笑みを浮かべて喜び、この琴弦の喩えの教えをしっかりと受けとめました。
お釈迦さまは「中道」の教えを、琴弦の喩えを通して示されました。高い志を持つことは大切なことですが、無理しすぎると心身が先に疲弊してしまいます。いま自分ができることを無理せず、少しずつ実践していくことが目標への近道かもしれません。
合掌
住職的
「10月の標語」解説
今月はアイルランドの牧師で、著述家のジョセフ・マーフィー(1898~1981)の言葉です。
近年、社会問題になっているのが他者に対するインターネット上での過度な批判です。ネット上では自身の実名や顔が相手に知られることがありませんので、それをいいことに倫理道徳に反する行いをした人や、自分と意見が合わない人に対して執拗な批判をする人が後を絶ちません。私たちは過ちを犯した人に対して、自分がその人を批難する権利があるかどうかを考えてみる必要があります。
『旧約聖書』の中に、倫理道徳に反したことをした人は、皆から石を投げつけられるという決まりごとがありました。今からおよそ2000年前に、ある女性がしてはいけない行為を犯してしまいます。ルールに則り、皆で石を投げつけようとしたその時、イエス・キリストが通りかかります。そのイエスに皆がこれから彼女に石を投げつけていいですよね?と確認をした際にイエスが、「罪なき者、まず石を投げうて」と有名な言葉を述べます。今まで何の罪も犯したことのない人がまず最初に石を投げなさい。人の罪ばかり責めるのではなく、自分の罪を考えなさいと、こう言われると誰も投げることができなくなってしまった、という話が聖書の中に出てきます。
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人にも「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(歎異抄)という言葉があります。人は誰でも〈しかるべき縁〉がはたらけば、どんな行いでもしてしまうような愚かな存在です。今一度、ジョセフ・マーフィーの言葉を自分自身の事として考えてみたいと思います。
合掌
住職的
「9月の標語」解説
9月といえば、中秋の名月。美しい月を眺めながらお団子を頬張るという方もおられるかもしれません。
ところで、古来より「月にはウサギが住んでいる」という故事が伝わっています。たしかに月の模様を見ると、ウサギがお餅つきをしているように見えなくもないですが…。そもそも、なぜ月にウサギが住んでいるのでしょうか。この故事は、インドで仏教を開かれたお釈迦様の前世物語が由来になっています。
ある時、ウサギ(お釈迦様の前世)がサル・イヌ・カワウソの動物たちと仲良く暮らしていました。そこに一人の修行者が現れ、それぞれの動物たちに食べ物を乞います。するとサル・イヌ・カワウソは、その日に手に入れた食べ物を修行者に施しましたが、ウサギは何もありませんでした。そこでウサギは、「私は火の中へ飛び込みますので、焼けたら私を召し上がってください」と、なんと火中に身を投げ入れたのです。ところが、薪の火はウサギを焼きませんでした。ウサギは不思議がります。
実はこの修行者の正体は帝釈天という神様で、ウサギを試すために姿を変えて天からやってきたのでした。帝釈天は感銘を受け、ウサギの立派な行いが世の人々へ知れわたるようにと、月にウサギの姿を描きました。古代インドでは、月のことを別名「ウサギを持てるもの」と呼びました。
日本の風習や文化は、時代や様々な国を経て今日まで伝わっているのですね。今年はそのような事に思いを馳せながら、お月見をするのはいかがでしょうか。とは言いつつ、「花より団子」ならぬ、「月より団子」の私(住職)ですが。
合掌
住職的
「8月の標語」解説
夏の甲子園の季節となりました。今月の掲示板は、今大会でも5大会連続で甲子園に導いた滋賀県代表の近江高校野球部・多賀章仁監督の言葉です。
勝負事には勝者と敗者はつきものですが、注目されるのはいつでも勝者の方です。勝者の喜びの裏には、敗者の涙があるのは言うまでもありませんが、私たちは案外そのことを忘れがちです。私たちは人生の中で様々な喜びを経験します。しかしその喜びとは、他者の悲しみに上に成り立っているということがあるのではないでしょうか。
今回の多賀監督の言葉を目にした時、あるエピソードを思い出しました。それは浄土真宗本願寺派(当院が所属する教団です)の第23代宗主・大谷光照師(1911~2002)が、かつて東京大学に合格した時のことです。当時、光照師の教育係だったのが浄土真宗の僧侶・島地大等師でした。島地師は詩人・宮澤賢治にも大きな影響を与えた人物としても知られています。島地師は最難関の大学に合格した光照師に敬意を表した上で、「あなた様の喜びの裏には、今回合格することができなかった、数え切れない人たちの悲しみがあることを忘れてはなりませんよ」と、お話をされたそうです。後に西本願寺の宗主として教団を牽引していく大谷光照師は、生涯その言葉を忘れることはなかったといいます。
仏教には「学仏大悲心」という言葉があります。これは中国の高僧・善導大師(613~681)の言葉で、仏教を学ぶということは、仏様の大悲のお心を学ぶということです。「大悲」の「悲」とは、原語はインドの言葉で「カルナ」といい、「
多賀監督の「負けた側のことを思える人間になりなさい」という言葉に、改めて大切な生き方を教えていただいた気がします。
合掌
住職的
「7月の標語」解説
今月は漫画家でタレントの、みうらじゅんさんの言葉です。みうらさんは仏教にかなり造詣が深い方で、今月の言葉は著書の『マイ仏教』(仏教伝道文化賞)が出拠となっています。この本、オススメです。
たまに「本当の自分」というものを見つけるため、「自分探しの旅」と称して旅に出かける方がおられます。個人的(住職)には、自分というものが一番厄介で面倒なのに、その自分をあえて探そうという気になりませんが・・・
では、実際に「自分探し」によって「本当の自分」に出会うことはできるのでしょうか。「本当の自分とは何か?」、「自分らしさって何だろう?」ということは、実はどれだけ考えても答えが出るものではありません。
仏教では「無我」、つまり「本当の自分」など存在しないということを、2500年前から説かれています。私たちは様々な縁によって偶然にも今ここに生じています。それは別の見方をすれば、私たちは非常に不安定な存在であるとも言えます。縁によって生じているのであれば、確固たる「本当の自分」など存在せず、環境などの縁が変われば自分の考えや行いもまた、簡単に変わっていくからです。お釈迦様はそのような 本来存在しないはずの本当の自分」を自らで作りあげ、そしてその「自分」に執われしまう(これを
仏教では、自身が思い描く固まった枠組みを疑い、点検することの大切さを説きます。それは上述したように、自分の都合によって構築されている「これが本当の私だ!」という我執こそが、苦しみを生み出す原因になると説くからです。そうならないように、なるべく自分の枠組みをはずしていくような生活を心がけながら、「こだわらない」という生き方も必要ではないかと思うのです。
みうらさんが言う「自分なくしの旅」とは、そのような自分の枠組みを点検する時間の大切さを述べておられるのではないでしょうか。
合掌
住職的
「6月の標語」解説
今月はお笑いユニット、ザ・プラン9のヤナギブソンさんの言葉です。これに、もはや「住職的解説」は不要かもしれませんが、少しお付き合いください。
ものごとが生じている因果関係について、「結果から原因」へとその必然性を見ていく、これが仏教のまなざしです。例えば、「花が咲いているところに必ず種がある」とは言えても、逆に「種があるところに必ず花が咲く」という「原因から結果」では必然性を語ることはできません。たとえ種(因)があっても、太陽の光や水の不足などによって、必ず花(果)が咲くとは限らないからです。このような因果関係は、私たちのいのちも同じです。こうして私という結果が生じているのは、必ず原因があるということです。両親をご縁に生まれ、様々な支えによって私のいのちは生かされています。
そうした私のいのちをあらしめているものを「恩」というのでありましょう。なるほど、「恩」という漢字は〈因〉の下に〈心〉があります。つまり、私という結果を支えてくださっている原因に心を寄せていく、その気づきの中で開かれる世界が「恩」であると、とても仏教的な言葉だと思います。
私たちは目に見えないモノは、つい無いモノにしてしまいがちです。しかし、目に見えないからといって存在しないということではありません。むしろ目に見えない様々な「お陰さま」によって私は存在しています。先人たちは、普段気づきにくい「お陰さま」を見える形にし、お礼ができるようにと据えてくださったのがお仏壇です。今月のヤナギブソンさんの言葉は、そうした「お仏壇がある日常」の大切を語ってくださっています。ですから、私(住職)もお仏壇とは、「宝くじが当たるようにといったお願い事をするのではなく、様々なご恩に感謝を申し上げる場所ですよ」と、ご門徒方にお話しています。また、浄土真宗では阿弥陀様の私をお浄土へ導き、必ず仏にしてくださる大きなご恩に対してお礼を申し上げるという意味も大切にしています。
皆様のご自宅にお仏壇はあるでしょうか?家の中にお礼が言える場所があるって、いいものですよ。立派なものでなくとも、西本願寺にはバッグに入るほどのコンパクトなご本尊もありますので、当院にお問い合わせください。
合掌
住職的
「5月の標語」解説
今回は、先月4月にご逝去されたムツゴロウさんこと、畑正憲さんの言葉です。私(住職)は小学生の頃、『ムツゴロウの動物王国』が好きでよくテレビで見ていたので、この度の訃報は大変ショックでした。謹んでお悔やみ申し上げます。
その際に放送されていた追悼番組を見ていると、ムツゴロウさんがシロクマの子どもと戯れながら、「いやーシロクマって、白いんですねぇ!」と感嘆の声をあげていました。シロクマが白いのは当たり前かもしれませんが、当たり前の事をそのまま感受し、感動することができるムツゴロウさんって本当に素敵だなと思いました。
仏教ではものごとの有り様をありのままに見ることを「
ある村に一本の曲がりくねった松の大木がありました。通りかかった一休さんは、村人たちに、「この松をまっすぐ見た者には褒美をやろう」と言いました。村人たちは遠くから見たり、寝そべってみたりと様々に工夫を凝らしてまっすぐ見ようとします。村人の一人が、「いやぁ、しかしどこから見てもこの松は曲がっているなぁ」とボソッと言いました。それを聞いた一休さんは、「あなたはこの松をまっすぐ見ることができた。褒美をやろう」・・・こういうエピソードです。
曲がりくねった松を曲がりくねっていると見ることが、松を「まっすぐ見る」ということです。私たちは「まっすぐ見る」と聞けば、「まっすぐ見る」ということにとらわれ、先入観でものごとを見てしまいます。私達は時に子供たちの個性や、花の美しさも、自分の価値観を通して見ることによって、それ自体が本来持っている尊さや美しさを曇らせてしまっているのかもしれません。目の前の事実をありのままに見るということは、そこには感動が伴うものなのでしょう。ものごとをありのままに見るって、案外難しいのです。
合掌
住職的
「4月の標語」解説
新年度を迎え、今月から新たな環境に身を置かれる方もおられるのではないでしょうか。そんな今月に選んだの は、最近テレビのコメンテーターでよく目にする経済学者の成田悠輔氏が、youtubeで語っていた言葉です。
このオリジナルは、2世紀のローマ帝国の皇帝マルクス・アルレリウスが『自省録』に書き遺している、「空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない」という言葉ですが、成田氏がより簡潔にまとめていたのでそちらを採用しました。
仏教には「自業自得」という言葉があります。自らのおこない(因)が招いた結果(果)は、自らが引き受けていかなければならないという意味です。例えば受験勉強を怠けた結果、志望校に落ちてしまった、これを「悪因苦果」といいます。一方でしっかり勉強して無事に合格することができた、これを「善因楽果」といいます。ここで大切なことは、怠けたという「悪因」に対する結果は、悪果ではなく「苦果」といわれることです。同様に、頑張って勉強したという「善因」に対する結果は、善果ではなく「楽果」といわれるところが仏教の特徴的な視点です。
つまり、志望校に落ちたことは自分にとって好ましくない結果(苦果)ではありますが、落ちたこと自体が「悪」ではありません。なぜなら、落ちたことがきっかけとなって一念発起し、その後よりよい結果を得られとしたら、むしろ「善因」になります。逆も同じです。合格できたことは自分にとって嬉しい(楽果)ことですが、合格したことに満足してしまって傲慢になり、その後に怠けてしまっては「善」ではなく、「悪因」になってしまうかもしれません。
つまり「合格・不合格」という結果だけみて、それを「善」だの「悪」だのと決めつけるのは尚早だということができます。このように考えると、「自業自得」という言葉には諦めを促すような、マイナスのイメージがあるかもしれませんが、実は自らの行動(因)によって未来(果)を変えることができるのだという、非常に前向きな言葉なのです。
仏教は原因が変われば結果も変わると説きますので、決して運命論・宿命論的な教えではありません。今月の成田氏の言葉には、自分が置かれている現状に対する戒めと、勇気を同時に与えられているように感じます。
合掌
住職的
「3月の標語」解説
今月は将棋で「永世名人」の称号をもつ、谷川浩司棋士の言葉です。将棋ではどちらかが「負けました」と意思を対戦相手に伝えることで、初めて勝負が決まります。谷川名人は将棋には様々な礼儀がある中で、負けを自分で認めるということが「一番大切なこと」と述べられています。その理由について、
負けが決まったときは、「負けました」と口にしなければなりません。とてもつらいし、悔しい言葉です。でも、負けを認めることで勝負に責任を持ち、自分の弱点にも気づけます。そして、次はどうやったら勝てるかと発想を切り替えることができるのです。(website『好書好日』より)
と言われています。この谷川名人の言葉を言い換えると、負けを受け入れるということが、自分の成長の第一歩になるということではないでしょうか。
思うに、現代人は「負けを認める」ということが苦手になってきているように感じます。それには様々な要因が考えられますが、例えば近代は「進歩」という価値観に、高いプライオリティ(優先順位)を置く傾向があります。コストを少なく、合理的に・・・それは少しでも理想に向かって努力していくということであり、他人より努力して一歩でも前に出る、そして勝者は讃えられるという構造です。このような効率よく進歩を目指す近代社会のシステムは、人間の欲望を刺激し、「自我」を肥大化させていきます。自我の肥大化は、自己承認欲求の増大に他なりません。
仏教では「自我」とは自己に執着する心であり、苦しみを増幅させていく原因であると説きますので、「私が、私が」という「我(執着心)」に振り回されないことが重要であるとする「無我」の立場を取ります。しかし、凡情の中で生きる私たちが執着から離れていくことは不可能です。だからこそ、自分がもっている「こうでなくてはならない」という枠組みを絶えず点検することが大切です。
「自分はしっかりしていなくてはならない」、「絶対に勝たなくてはならない」といった枠組みが強ければ強いほど、そうでなくなった時の苦しみは大きいものとなります。その意味で、現代の私たちはもっと「負ける練習」が必要なのではないでしょうか。「負けを認める」ことは弱さを認めることではなく、成長の第一歩だからです。ちなみに、谷川名人は神戸の浄土真宗のお寺ご出身なんです。
合掌
住職的
「2月の標語」解説
2月は毎年恒例の節分の季節です。「節分」とは「季節の分かれ目」という意味で、年に4回訪れる立春・立夏・立秋・立冬の前日を指す言葉ですが、いつしか立春(2月4日頃)の前日のみを「節分」と呼ぶようになりました。節分は元々中国の文化が由来で、「追儺(ついな)」という疫病をもたらす疫鬼を、魔除けの力を持つ穀物で追い払う行事がおこなわれていました。
鬼を払う役人が盾と矛を持って、貴族たちと鬼を追い回すという文化が日本に伝わり、節分に豆まきをするようになったとされます。
豆まきをする時には、「鬼は外!福は内!」と声を出しながら鬼を追い払います。しかし、鬼を外へ追いやればもう家に鬼はいなくなるのでしょうか?家の中には人を嫉む・悪口を言う・腹を立てる、という三拍子そろった「私」という鬼がいるではありませんか。
浄土真宗の篤信者のことを「
うちのカカアの寝顔をみれば、地獄の鬼のそのまんま、うちの家にゃ鬼が二匹おる。男鬼女鬼あさましや、あさましや。
という言葉を残しておられます。夫婦喧嘩をして腹を立てた奥さんの寝顔が鬼のように見えたのでしょう。しかし、才市さんはその奥さんを鬼にしていた、もっと恐ろしい男鬼の自分がいたことを嘆いています。このような自身のあり方は、単なる自己反省による気づきではなく、仏さまの教えを通して知らされた自己の姿をいえるでしょう。
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、
さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし。(歎異抄)
といわれ、縁次第ではどんなおこないをしてしまうか分からない、鬼のような心をもった自己であるとされています。しかし、そのような鬼こそを救わずにはおれないと願っておられるのが阿弥陀如来です。自己中心的なモノの見方によって、自他ともに傷つけながら生きている「私」という鬼に届けられているのが、「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」というお念仏の教えだったのです。
合掌
住職的
「1月の標語」解説
令和5年の初めは、日本が世界に誇る映画監督・黒澤明さんの言葉です。黒澤氏は映画への長年の貢献に対して、1990年に米アカデミー賞・特別名誉賞が贈られました。その時に黒澤氏が、スティーブン・スピルバーグと ジョージ・ルーカスの2人の巨匠からオスカー像を渡された授賞式のスピーチで語ったのが今月の言葉です。数々の賞を受賞し、映画について極められたようなお方の言葉としては少し意外に感じます。
しかし時代も国も違いますが、オランダの法学者で「国際法の父」と呼ばれるフーゴー・グローティウス(1583ー1645)が「多くのことを理解したが、何も完成しなかった」と、黒澤氏と同じようなことを語っています。両者はそれぞれの分野を突き詰めすぎたのか、それとも謙虚さからなのかはわかりませんが、その分野をリードした方が同様の言葉を残しているのは興味深い事です。
さて、浄土真宗本願寺派・第8代宗主であった蓮如上人(1415ー1499)は、
ご法義をよく心得ていると思っている者は、実は何も心得ていないのである。反対に、何も心得ていないと思っている者は、よく心得ているのである。弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、よく心得ているということなのである。物知り顔をして、自分はよくご法義を心得ているなどと思うことが少しもあってはならない。(『蓮如上人御一代記聞書』現代語訳)
と仰っています。 これは仏さまの教えを聞く姿勢について述べられており、自分の知識や理解を誇り、その思いの中に閉じこもっていると仏法を謙虚に聞く姿勢が失ってしまうことを誡めている言葉です。そうではなく、自他ともに傷つけていくような愚かな生き方しかできない私に対して「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」と、さわりなき救いを喚びかけてくださる如来の言葉を仰ぎ、ただその慈悲を喜ばせていただ
くことが、浄土真宗におけるお聴聞の大切な姿勢だということです。
蓮如上人の言葉は仏法を聞く姿勢だけでなく、黒澤氏やグローティウス氏と同様に私達が学ぶ姿勢の大切さにも通じると思います。「これでわかった」と歩みを止めてしまうとそこで成長は止まってしまいますが、「わからない」という思いから次の問いが起こり、その問いがまた新たな知見へと導いてくれます。
いつも「住職的解説」をお読みくださり有難うございます。今年一年、皆様にとって実りある年となりますよう念願しております。
合掌
住職的
「12月の標語」解説
先月11月6日、岐阜県で開催された「ぎふ信長まつり」に“キムタク ”こと、俳優の木村拓哉さんが来られて話題になりました。その同じ日、岐阜県内のあるお寺の掲示板がSNSにアップされ、こちらも注目を集めました。それが今月の言葉なのですが、敢えてもう一度書かせていただきます。
俺はキムタクになれないけど、キムタクも俺にはなれない
私(住職)は一度でいいからキムタクになって用海町を歩いてみたいものですが、果たしてキムタクが私になりたいかどうかはさておき・・・
この言葉を聞いて「お互いがその人になれないなんて、当たり前じゃないかと」思われたかもしれませんが、まさにその通りです。人はそれぞれの人生を歩んでおり、誰も代わることができません。人は誰もが気づいたら生まれ、年を重ね、そしていつかは命終えていかねばなりません。自らの「死」は、自らで引き受けていかなければならないのです。その私の有り様をお釈迦さまは『仏説無量寿経』というお経に、
人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みずからこれを当くるに、代るものあることなし。
と説かれました。独り生まれて、独り死んでいかなければならない私の命、たとえどんなに親しい友人でも、家族であったとしても誰も代わってはくれません。それはまるで、誰もいない荒野をただ独り歩んでいるようなものです。しかし、その私に届けられていた仏さまの言葉が“南無阿弥陀仏”でした。
“南無阿弥陀仏”とは、「お願いだからお念仏を称えてこの人生を歩んでほしい、そして命の縁が尽きたならばあなたを必ずお浄土へと生まれさせましょう」という阿弥陀如来という仏さまの喚び声であると、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人はお示しになられました。
私はただ生まれて、ただ死んでいく人生ではなかった。阿弥陀さまの大きな願いに生かされ、お浄土へ生まれて仏のさとりをひらかせていただく命であったと、さわりなき救いを告げてくださる“南無阿弥陀仏”に、生と死をつらぬく「いのちの意味」を賜っていくのです。
合掌
住職的
「11月の標語」解説
今月の掲示板は、先月亡くなられたアントニオ猪木さんのお言葉です。猪木さんといえば、引退試合にリング上で詠み上げた「道」が有名ですが、今月の言葉はその一節です。
実はこれには出典があり、オリジナルは浄土真宗の僧侶で、哲学者の清沢哲夫師(1921-2000)が著書『無常断章』に詠まれた「道」という詩です(猪木さんは『猪木寛至自伝』で、一休さんの言葉として紹介していますがこれは誤解とみられます)。以下がその文章です。
此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ
危ぶめば 道はなし
ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である
わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ
猪木さんの言葉とは少し異なるところがありますが、清沢師の詩を元にされていることがわかります。
皆さんがイメージするのはどのような「道」でしょうか。幹線道路のように大きく広い道、奥まった細い路地道、あるいは曲がりくねった道もあります。いずれにせよ、道とは目の前に開かれているものをイメージします。しかし、私たちの人生という「道」はいつも目の前にあるわけではありません。たしかな未来に向かう道を力強く歩き出すというより、迷いながらもとにかく一足ふみ出すような感じでしょうか。そしてその一足が道となっていく…猪木さんの言葉は、未来へ向けてふみ出したいけどふみ出せないときに、自分を奮い立たせてくれます。
また、私たちの「いま」は様々な苦楽や辛酸を味わってきた歩みの結果です。
そうすると、「いま」という現在地から過去を振り返るとき、これまでの歩みがいまこの瞬間に連なる「道だった」ことにも気づかされます。今月の言葉は、人生における過去から未来へと連なる道が「いま」によって意味づけられていく、そんな言葉のように私(住職)は感じます。
これまでの歩みは決して平坦なものではなく、曲がりくねったデコボコの道だったかもしれません。その道を無意味なものにするか、私を育んでくださった尊いものにするかは「いま」の私の受け取り方次第です。過去を受け入れ、意味を見出す時、これまでの「道」は必ずこれからの「道」にもなるはずです。
合掌
住職的
「10月の標語」解説
今月は漫画『バガボンド』から、何かと宮本武蔵の事を気にかけている
その評価のプレッシャーは、よい学校、よい大学、よい一流企業、ノルマ達成と終わりがない。無論、一生懸命に努力して、正当に評価され、努力が報われるのはよいことである。しかし、評価が常につきまとう評価社会では、人はうかつに自分の失敗や悩みを他人に打ち明けられない。それによって自分の評価が下がる危険性があるからだ。ひとたび「使えない」と烙印を押されてしまえば終わりの「ダメ出し評価社会」だ。そのような環境で人間関係が希薄化する。ひとりで悩みを抱え、自殺してしまう人も少なくない。
(『利他主義と宗教』より)
私達は「評価社会」の中で人と比べられ、そして自身もまた人を比べる側にまわって生きているのではないでしょうか。そのため、時には息が詰まるような思いを抱えることもあります。しかし、評価・競争社会という常に比べられる世界にあって、決して比べられることのない世界もあります。それこそ仏様が私をご覧になっている「いのち」のあり方です。それはまるで、社会でたとえ失敗しようとも、決して否定することなく、ありのままの私を受け入れてくれる親のまなざしに似ているのかもしれません。
肩ひじを張りながら生きているこの「評価社会」の中、「いいんだ それで」と、決して比べられることのないまなざしがが私に注がれていたことに気付くとき、また今日も少しだけ頑張ることが出来るのかもしれません。
合掌
住職的
「9月の標語」解説
今月はアニメでも親しまれている室町時代を代表する臨済宗大徳寺派の僧侶、
ー大丈夫。心配するな。何とかなるー
あまりに単純なメッセージだったため、僧侶たちはおそらく拍子抜けしたことでしょう。それでも、この言葉が幸いしたのか、危機的状況を無事に乗り切ることができたそうです。
すがるような思いで手紙を開けたこの僧侶たちと現在の私たちは、ある意味同じような状況に置かれていると言えるかもしれません。2020年の初めから現在にかけて、新型コロナウイルスの感染拡大により危機的状況が続いています。この災禍が果たしていつまで続くのか、それは誰にも分かりません。先が全く見えない危機的状況に長く身を置くと、人間は誰しも不安に陥り、物事を深刻に捉えるようになります。そして、事態を深刻に受け止めれば受け止めるほど、周囲が見えなくなってしまい、自分自身のパフォーマンスが低下していきます。
「深刻に生きる」のと「真剣に生きる」のとでは全く違います。「深刻に生きる」とは、自分にコントロールできない事や未来の事などさまざまな雑念にとらわれながら生きることです。一方、「真剣に生きる」とは、いま目の前の自分にできることに集中して生きることです。おそらく一休さんは、危機の渦中にある僧侶たちに対して、「深刻になるな、真剣になれ」という想いを伝えたかったのだと思います。一休さんの言葉を心の中で何度か繰り返してみると、肩がすっと軽くなったような気がします。お釈迦さまは『サンユッタ・ニカーヤ』という経典の中で、次のようにおっしゃっています。
かれら(清浄な者)は過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。ところが、愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎れているのである。刈られた緑の葦のように。
私たちはお釈迦さまが言う「愚かな人々」になってはいないでしょうか。自分がコントロールできないことにあまりとらわれることなく、現在の状況の中で目の前のできることに集中して日々を過ごしたいものです。
合掌
ダイヤモンド・オンライン
〈「お寺の掲示板」深~いお言葉〉参照
住職的
「8月の標語」解説
今月は漫画『ONE PIECE』(16巻)の登場人物、Dr.ヒルルクが死の直前に語った言葉です。不器用な男・ヒルルクが、愛弟子チョッパーにとった命がけの行動は、いつ読んでも泣ける名シーンです。
「人は2回亡くなる」と言われることがあります。1回目は肉体がなくなった時、2回目は人々の記憶からなくなった時です。そして「2回目の死」こそが、Dr.ルルクが言うように、本当にその人が亡くなったことを意味するのだと思います。言い換えると、たとえ肉体がなくなったとしても、記憶の中にいる間は、その方は生き続けているのだということです。
たまに「人は死んだらおしまい」という言葉を聞くことがありますが、私(住職)はそうは思いません。それは遺された者は、亡き人の「まなざし」の中で生きるということがあるからです。たとえば亡き祖父母、亡き両親のことを考えて行動に移すことはないでしょうか。こういうことをしたら亡くなった母は悲しむだろうからやめておこうかな・・・など、亡き方はたとえ姿は見えなくとも、私の人生を支えてくださっていると感じることがあります。浄土真宗の僧侶・中西智海師(1934〜2012)は次のような言葉を遺しています。
人は去ってもその人のほほえみは去らない
人は去ってもその人のことばは去らない
人は去ってもその人のぬくもりは去らない
人は去っても拝む掌(て)の中に帰ってくる
(『ひととき〜私をささえる言葉〜』)
人は亡くなってもそれぞれの胸の中に生き続け、先立って往かれた方々が私の掌を合わしてくださっている年忌法要やお盆といったお仏事は、亡き方を思い返すことができる大切な時間であるといえます。
最後に、お盆を迎えるこの時期に住職オススメの映画を紹介させていただきます。それは2017年に上映されたディズニー映画『リメンバー・ミー』です。この映画は死者と生者との関わりをテーマにしたもので、Dr.ヒルルクの「人はいつ死ぬと思う?それは人に忘れられた時さ」という言葉をまさに体現したような内容となっています。個人的には、毎年お盆の時期に金曜ロードショーで放映してほしいぐらいです。
合掌
住職的
「7月の標語」解説
今月は実業家でソフトバンク社長の孫正義さんの言葉です。これはインターネット上で孫さんに寄せられた、「最近髪の毛が後退してきていませんか?」という問いかけに対する返事です。私(住職)がこれまで出遇ってきた言葉の中でも、特に感銘を受けた言葉のひとつです。すごいですよね、この発想の転換。
私たちはそれぞれに自分の都合による「枠組み」をもって生きています。その枠組みとは、「自分は周りからこのように見られているだろうから、こうでなければならない」とか、「自分は社会的に○○だから、こうあるべきだ」というようなものです。しかし仏教では、無自覚にもっているそういった枠組みを疑うことが大切であるとします。仏教で自分の枠組みを点検するのは、自分の都合によって構築されている「こうあるべきだ」「こうでなければならない」という執着心こそが、悩みや苦しみを生み出す原因になっていると説くからです。そのことについてお釈迦様は、
人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。(「マッジマ・ニカーヤ」Ⅲ)
と説かれています。ここには「苦しみ」を生み出すのは「執着」であり、その「執着」を生み出すのは「はからい(自分の都合による枠組み)」であると述べられています。そしてその「枠組み」が強固であるほど、そうあり続けることが苦しくなってきます。例えば自分は周りから明るい性格だと思われているから、どんなツラいことがあっても元気に振る舞わなくちゃいけないと考えるとしんどくないですか?
このように、自分が無意識にもっている「こうでなくてはならない」という強固な枠組みは、かえって自分を苦しめることになります。そうならないように、なるべく自分の枠組みをはずしていくような生活を心がけることによって、新たな思考回路が開かれるのではないでしょうか。今月の孫正義さんの言葉を通して、「こだわらない」という生き方に、このような発想の転換がおこなわれたのではないかと、住職的に感じた次第です。
合掌
住職的
「6月の標語」解説
今月は5月11日に亡くなられたダチョウ倶楽部・上島竜兵さんの言葉を、追悼の思いも込めて掲げさせていただきました。
上島さんといえば、リアクション芸人として知られています。
特に熱湯風呂に入る際、「絶対に押すなよ 」と前フリをして、メンバーの肥後さんと寺門さんに押されて熱々のお風呂に落ちるというお決まりの芸に、
分かっていてもいつも爆笑させていただきました。
上島さんはこの熱湯風呂の芸について、
目の前に熱湯風呂があったら入る、オレはそれでいいんだ!と思えるようになりました。お笑い芸人はみんな、そうやって自分の笑いを探していくものなんだと思います。
と仰っています。
さらに上島さんは「リアクション芸人がトーク上手くなったら終わりだよ」と言われているように、得意分野は人それぞれで、ご自身は熱湯風呂をやり続けられました。
そしてこの芸をもはや伝統芸能の域にまで高められたといっても過言ではありません。 私(住職)は上島さんの姿を通して、ある有名な僧侶の言葉を思い出しました。
それは天台宗の祖・伝教大師最澄師です。最澄師には、
大きく世界を変えようとするのではなく、まず目の前のこと、いま自分にできることを一生懸命やる。
そうやって一人ひとりが灯す小さな光が、やがて大きな光となる。忘れがちですが、そんな当たり前のことを思い出させてくれる言葉です。
そして今日もまた、上島さんの動画をみて笑っています。
合掌
住職的
「5月の標語」解説
今月はお笑い芸人の江頭2:50さんの言葉です。江頭さんは上半身裸で下は黒タイツというインパクトのある格好をされていますが、内面はとても人情味のある方です。(東日本大震災の支援話は感動的です)
さて、ここで質問ですが「当たり前」の反対語は何でしょう?・・・
正解は「
ケニアにワンガリ・マータイ氏(1940〜2011)という女性大臣がおられました。
社会活動家でノーベル平和賞まで取られた方です。マータイ氏が来日された時に、日本の「もったいない」という考え方に触れて大変感銘を受け、「MOTTAINAI運動」という活動を展開されました。「もったいない」という日本語はどうしても英語に翻訳できないということで、そのまま「MOTTAINAI運動」いう形で広げていかれたのです 。「当たり前」という見方にとどまっている人には 、まず「おかげさま」「もったいない」という言葉は出てきません。いま目の前の事実に対して感謝をさせていただくことによって、そのような心が恵まれていくのではないかと思うのです。
以前、「幸せになったから感謝するのではなく、感謝する人が幸せである」という言葉を目にしましたが、確かにそうだなと頷かされました。 私たちは「ない」ものに目を向けがちで、「ある」ものにはあまり目を向けようとしません。そうなると不平不満が多くなります。しかし、「ある」ものに目を向けると、少し見方が変わります。
江頭さんの「笑えてるやつには、笑えるという幸せを知ってほしい」という言葉を通して、「幸せ」とはこれから掴んでいくものではなく、 気づいていくものであるという視点を大切にしたいと思います。
合掌
住職的
「4月の標語」解説
「世界を変えた3つのリンゴ」という表現があります。一つ目は旧約聖書、アダムとイブの話に出てくるエデンの園のリンゴ。二つ目は万有引力の法則のヒントとなり、その後の物理科学に影響を与えたニュートンのリンゴ。そして三つ目は「iPhone」や「iPad」などを世に送り出して、私たちの生活に変革をもたらしたアップル社。今月はそのアップル社の創業者、スティーブ・ジョブズ(享年56)の言葉です。
この言葉は病と闘いながらも、米スタンフォード大学の卒業式で行われたスピーチの最後に語られました。ジョブズ自らの生い立ちや、闘病生活を織り交ぜながら人生観・死生観を語った、今でも語り継がれる名スピーチです。Youtubeでも見ることができるのでご覧ください。
実はジョブズは若い頃から仏教の教えに共感し、人生観に大きな影響を受けています。ここでジョブズは「Stay foolish(愚か者であれ)」と語っていますが、おそらくこの言葉も仏教と無関係ではないように思われます。一般的に「愚か者」と聞くとネガティブなイメージがあるかもしれませんが、仏教では決してそうではありません。例えば曹洞宗の
聖人は、ご自身を「
「賢く」なってしまうと、他人のアドバイスをなかなか聞き入れることができなくなります。むしろ自分の「愚かさ」に気づかせていただく時、謙虚な生き方が恵まれるのではないでしょうか。だからこそジョブズが「ハングリーであれ、愚か者であれ」と述べたのは、目標に向かって積極的に取り組むことの大切さ、同時にひたむきさと謙虚さを忘れてはならない、というメッセージだと私(住職)は受け止めています。
4月に入り、新年度を迎えました。「偉そうにしても偉くはない、バカにされてもバカではない」という意識を大切に過ごしていきたいと思います。
合掌
住職的
「3月の標語」解説
現在のウクライナ情勢に心を痛めています。自分の野望を実現させるために、なぜ罪のない人々の命が奪われなければならないのでしょうか。
戦争ほど愚かなものはありません。一刻も早く、尊い命が護られるように念願するばかりです。
今月は「インド独立の父」とよばれる、マハートマー・ガンジー(1869〜1948)の言葉です。ガンジーは「非暴力」という理念のもとで活動を続けました。
仏教の開祖であるブッダ(お釈迦様)は非暴力を説かれ、仏教徒にとって生きる上で大切な指針となっています。
ブッダの言葉を伝える『法句経ほっくきょう』には次のように説かれています。
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。(129 偈)
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(130 偈)
「己が身にひきくらべて」というのは、暴力によって命を奪われる側に自分の身を置いてみなさいということです。
命を奪われる恐怖や苦しみを、自分自身の恐怖や苦しみとして感じ受けとめるなら、奪う側に立つことはありえません。
国家や集団が、戦争やテロのような暴力を行使するとき、必ず何らかの「正義」の名のもとに自らの行為を正当化しますが、そこには暴力を受けるひとつひとつの命に「己が身をひきくらべる」思いが欠けています。命を奪われる苦しみや痛みを思い、共感することが、「非暴力」という生き方を貫くための大切な視点になります。
今回のウクライナだけでなく、世界各地で戦争やテロが繰り返され、多くの尊い命が失われています。
その悲しい現実に直面して、私たちがどのように対処すべきかを考えるとき、「苦しみ痛む生命の側に自分の身を置いて考え、行動しなさい」というブッダの言葉は、とても大事な意味をもっているように思われます。
合掌
※大谷大学 HP「きょうのことば」参照
住職的
「2月の標語」解説
今月はお馴染み、スヌーピーの言葉です。スヌーピーはアメリカの漫画家、チャールズ・M・シュルツ(1947~1999)の漫画「ピーナッツ」に登場する犬のキャラクターです。今月の言葉はルーシーという、少しイジワルな女の子との会話の中で出てきます。
ルーシー「時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。」
スヌーピー「配られたカードで勝負するしかないのさ…それがどういう意味であれ。」
このスヌーピーの言葉は「もっと○○だったら・・・」とか、「どうして自分は○○じゃなかったんだろう…」なんて気分になった時に思い出したい言葉です。自分の不遇や、現状への不満をいくら嘆いても何も始まりません。それどころかネガティブ思考にとらわれて、より惨めな気持ちになってしまいます。
ところで、解剖学者である養老孟司氏の『超バカの壁』という本に興味深いことが書かれていました。働かない若者が増えている現代、彼らが働かない理由として一番多いのが、「自分に合った仕事を探しているから」なんだそうです。しかし、養老氏はこの理由に疑問を呈しています。なぜなら、そもそも仕事とは、「社会に空いた穴」であり、穴をそのまま放っておくとみんなが転んで困るから、ともかく目の前の穴を埋めてみる。それが仕事であって、初めから「自分に合った穴」が存在するのではなく、むしろ「社会に空いた穴」に自分が入り、そこを埋めていく中で、周りの環境や出遇いの中で考えが変わり、自身が育っていくというのです。まさに、「それがどんな意味であれ、配られたカードで勝負する」ということを通して、現在の自分に「意味」が与えられていくのでありましょう。
「私」とは最初から確固たるものとして存在しているわけではなく、様々な関係性によって形成されていきます。この関係性のことを仏教では「縁起」と言います。愚痴や不満ではなく、自身を育ててくれたご縁とご恩に感謝させていただく人生を歩みたいものです。
合掌
住職的
「1月の標語」解説
今月は浄土真宗本願寺派の勧学・深川倫雄和上(1924~2012)のお言葉です。
本願寺派では、学徳豊かな僧侶のことを「勧学」と申し上げます。このお言葉には前後にも文章がありまして、以下にあげさせていただきます。
「こうしたら人が悪う言うまいか、こうしたら良く思われまいか」というのが人と人との交際。その交際はやめられはしませんが、それを軽くして、「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみか」というやり方が仏法、お念仏であります。
人にほめられとしても、それはほめた人の功徳であって、ほめられた人の功徳ではありませんからね。反対に人の悪口を言う人がおったら、その人の心に傷がついておるのです。人をほめる人がおったら、ほめる人の心が豊かになってゆく、人を悪く言えば言う人の心が貧しくなってゆくんだ。
仏法に志すということは、なるべく人と人との交際に気を配る心を軽くして、私と仏さまとの交際を重くするということであります。
(深川倫雄『仏力を談ず』永田文昌堂・刊)
仏さまの教えを拠り所にするということは、仏さまの価値観を大切にしながら生きていくということです。人を貶せば、仏さまが悲しまれます。自己中心的な生き方しかできない自分ではありますので、時には人を傷つけてしまうこともあるでしょうが、少しでも仏さまの視点を気にかけながら生活していきたいものです。
近年、社会問題となっているのは、インターネット上における他者への誹謗中傷です。インターネットは、誰もが気軽に自分の意見や思いを投稿できますが、その投稿内容によっては人を傷つけてしまいます。言葉は使い方によって人を傷つけたり、喜ばせたりすることができます。人の悪口を言うのは簡単でも、人をほめることは、案外難しいものです。(実際、陰で人をほめるより、悪口を言うほうが多いのではないでしょうか?)ですから、人にほめられたとしても自分の手柄にするのではなく、ほめてくださったお方のお心が豊かなのだと、思いを馳せてみてください。そのほうが自分の心も豊かになるような気がします。
いつも掲示板を見てくださり、有難うございます。今年が皆さまにとって尊い一年でありますように念じております。
合掌
人は転ぶと坂のせい
坂がないと石のせい
石がないとクツのせい
人はなかなか自分のせいにはしない
by 森繁 久彌
住職的
「12月の標語」解説
12月は往年の名優・森繁久彌さんのお言葉です。
森繁さんは小学校5年まで西宮市立鳴尾小学校に在籍されていたこともあり(途中大阪へ転校)、鳴尾小学校出身の住職(わたし)は勝手に親近感を抱いていました(笑)
さて、仏教には「縁起」という考え方があります。一般には「縁起が良い、縁起が悪い」といった、吉凶の兆しを表す言葉として用いられていますが、元々はそのような意味ではありません。「縁起」とは「因縁生起」を省略した言葉で、あらゆるものが生じているという結果(生起)の背景には、必ずそれを生んだ原因(因)と条件(縁)とがあるということが本来の意味です。
「ものごとの結果には必ず原因がある」、この考え方はある意味当然だと思われるかもしれませんが、私たちは果たしてその原因をしっかりと見極めることが出来ているでしょうか。案外、自分の都合のいいように原因を捉えがちです。原因を見あやまれば、目の前で起こっている現象(結果)を正しく見たことにはなりません。
ここでひとつの例を出してみましょう。誰かが意図せずにコップを割ったとします。その場合、「○○さんがコップを割った」と言います。しかし自分が割ったときは、とっさに「コップが割れた」と、あたかもコップが勝手に割れたかのように言わないでしょうか。でもコップは勝手に割れません。落ちるはずがないコップが私の手から滑り落ちて、本来割れるはずのないコップが勝手に割れてしまった・・・。そうではなく、コップを割った原因は「わたし」です。このように、自分にとって不都合なことが起こると、自分ではなく他に原因を求めようとします。他人が割ったときは「コップを割った」。自分が割ったときは「コップが割れた」。これ、もう無意識です。人は潜在的に「自分は間違っていない」と、自分を守ろうとする防衛本能がはたらくようです。そして「自分は正しい、相手が間違っている」という歪んだ因果関係の捉え方は、時として争いの原因になります。そのような姿勢ではなく、相手を認め、尊重してこそ自分も大切にされるのではないでしょうか。
合掌
住職的
「11月の標語」解説
今月の掲示板はアニメ・イラスト作家である谷口崇さんの、とても痛快な言葉です。この言葉を目にした時、深く共感しました。
「やまない雨はない」というフレーズはよく聞いたり、目にします。言葉の意味としては、「今つらいことがあったとしても、必ず乗り越えることができる」といったところです(よく似たフレーズに「明けない夜はない」もあります)。
まことに殊勝な言葉ではありますが、私(住職)はこれを言われて嬉しかったり、救われたことはありません。それは「やまない雨はない」の続きに、「だから頑張れ」という言葉が隠れているからです。確かに「頑張れ」という言葉は相手を鼓舞したり、勇気づけたりする際には有効な言葉です。しかし、語りかける状況によっては厳しい言葉でもあります。本当につらくて悲しいときには「頑張れ」という鼓舞ではなく、「つらいね、悲しいね」と共感する言葉の方が温かく感じます。「頑張れ」といわれても、「ずっと頑張ってるのに、これ以上は…」と塞ぎこんでしまいたくなります。
医師で、浄土真宗の念仏者でもある駒沢勝先生は、「同治」と「対治」という考え方を紹介されています。「対治」とは、例えば発熱の時に氷で冷やして熱を下げること。「同治」とは逆に温めて汗をかかせ熱を下げること。また、悲しんでいる人に「悲しんでも仕方がない、元気を出せ」と励ますのは「対治」。一緒に涙を流し、共に悲しんで人の心の重荷を降ろさせるのが「同治」、といった具合です。そして医師として、治療にあたってどちらがよい効果をもたらすかといえば「同治」なのだそうです。「対治」が現状の否定であるのに対して、「同治」は現状をあるがままに受容するからだ、と述べておられます。
阿弥陀如来さまは「同治」の仏さまです。私に一切の条件をつけず、「どんなことがあっても、そのままのあなたを救うよ」と温かく喚びかけられています。そしてその呼びかけが「南無阿弥陀仏」なのです。そのままの私を認めてくれる存在に遇うことによって、苦しみの中でも生き抜くことができるのではないでしょうか。
合掌
明日死ぬとしたら、今日はどのように過ごしますか?
と問われた時、
「いつものように過ごしたい」と言えるような生き方をしていたい。
住職的
「10月の標語」解説
例えば、もしあなたが明日死ぬとしたら、今日はどのように過ごしますか?おそらく大抵の約束はキャンセルするのではないでしょうか。あるいは悩み事があったとしても、そんなことはすっ飛んでしまうでしょう。自らの「死」が目前になった時、大事な約束や悩み事は、もはやどうでもよくなる。人生においてそれらは案外大したものではありません。
究極論ではありますが、仏教が目指すのは「その時が来てもいつものように過ごす」ということです。その時に、いつもと同じように過ごせないということは、普段は本来の姿ではないということになります。しかし、普段からそのような心で生きるというのは並大抵のことではありません(かくいう住職も、とても言えません…)。とはいえ、「いま」を生き切るという事は大切なことです。
仏教の時間論は「いま、この一瞬しか存在しない」と説きます。この一瞬を原因として次の一瞬が生成されます。この一瞬にどのような思考・言動・行為を行うかが次の一瞬を決定するのです。そして次の一瞬の思考・言動・行為がまた次の一瞬を…と連鎖していきます。ですので、仏教では「運命」や「宿命」といった、時間を実有的にとらえるようなことは基本的にしません。
今の息は前の息にあらず。前の息は今の息にあらざるなり。
という言葉があります。この1呼吸は、後にも先にも一生でただ1回のものであるという意味です。すべては刻一刻と変化し続けるので、その瞬間その瞬間は2度と戻ってくることはない、1回だけのものなのです。そして時もこの一瞬しかあり得ません。
ぜひ朝の駅や夕暮れの街並みを眺めながら、刻一刻と変化し続ける世界を感じてください。あるいは少し時間の余裕があれば、誰にも知られることなく道端に咲いたお花をじっと観察してみてください。「すべては関わり合いながら変化し続けている」ことが実感できれば、今がどれほど豊かであり、どれほど大切であるのかが知らされます。
合掌
住職的
「9月の標語」解説
今月はお笑い芸人「スピードワゴン」の小沢さんの言葉を掲示板にさせていただきました。特に後半の「何を語らないかが品性」について、思うところを書かせていただきます。
相手に自分の思いを伝える際に「語り」が大切であることは言うまでもありません(手話などの視覚的コミュニケーション手段も含めて)。
一方で、室町時代の能楽師・世阿弥の『風姿花伝』に、
秘すれば花なり 秘せずは花なるべからず
(秘めるからこそ花になる 秘めねば花の価値は失せてしまう)
という言葉があります。
これは表現したいこと、言いたいことを象徴する部分を表現し、あとは受け止める側が奥に秘められた大事な部分を想像してほしい、という「語らない」部分に焦点をあてた言葉といえるでしょう。このように、あえて「語らない」ということにも重要な意味があります。例えばカウンセリングの際、相手の話に自分の評価を入れて否定することなく、とにかく思いを聴いて受け入れる「傾聴(けいちょう)」が大切であるとされます。確かに自分の思いが否定されず、ただ聴いてもらえるだけで「居場所」が与えられるような気がします。
仏教を開かれたお釈迦様は、相手の悩みに応じて説法の内容を変えられたほどの「語り」の名手です。しかし、そのようなお釈迦様でも時に「語らない」ことを大事にされた場面がありました。それは韋提希(イダイケ)という女性の、深い悩みを聴いている時でした。この女性はハタから見れば自分勝手な都合によって苦悩しているのですが、韋提希はそのようなことにも気づかず、自分のことを棚にあげて、こともあろうか自分が苦しんでいるのはお釈迦様のせいであると主張するのです。そこでお釈迦様がとった行動は「沈黙」でした。その沈黙が韋提希をして自分自身に問題はなかったのかと自問自答させ、最終的に韋提希の方から「どうかこのような私でも救われていく教えをお説きください」と申し出ます。そしてその申し出に応じてお釈迦様は、どんな愚かな者であっても救われるお念仏の教えを説かれるのでした。この時にお釈迦様がとった行動は「沈黙の説法」と言われています。
「聴き上手は話し上手」と言われますが、私(住職)も立場上、色んな方々からお話を聴かせていただきますので話すばかりでなく、「聴く」ことも大切にしたいと思います。
合掌
住職的
「8月の標語」解説
今年もコロナ禍の夏といえども、子どもにとって夏休みはやはり特別なものです。夏休みと切り離せないものが宿題。遊びに夢中になり、つい「明日やろう」と後回しにして、8月の終わりにため込んだ宿題に追われる…。わたし(住職)も例外ではなく、この時期になるとそんな苦い記憶が思い出されます。
では「夏休み」を「人生」に置き換えてみてはどうでしょうか。この命が終えたらどうなるのかという「いのちの問題」(これを「後生の一大事」と言います)を聞かせていただくのが仏教です。ある人は言うかもしれません。「人は死んだらおしまい」と。しかし、そんな死生観はすこし寂しくないでしょうか。それは私自身、自分がいのちの岐路に立たされたとき、あるいは大切な方が亡くなったとき、「死」をそんな簡単に割り切ることができないからです。
浄土真宗では阿弥陀如来という仏さまをご本尊としています。阿弥陀さまは「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」という喚び声となって、「あなたが命の縁が尽きたとき、必ずお浄土へと生まれさせて仏にさせましょう」と、わたしのいのちに喚びかけてくださっています。「南無阿弥陀仏」のおいわれを聞かせていただくとき、自分も大切な方も阿弥陀様に願われ、そしてお浄土というさとりの世界へ生まれさせていただけるいのちであったことに気づかされます。
以前、ある方に「お寺で一緒に仏さまのお話を聞きませんか?」とお誘いしたところ、「私はまだ若いから、もう少し年を取ったらお参りさせていただきます」と言われました。しかし、果たして私たちには「明日」という日は保証されているのでしょうか。「そのうちお寺参りしよう」では、気づいたときはもう人生が終わってしまいます。無常の世に生かされているからこそ、明日ではなく「いま」、いのちの大問題を聞かせていただかなければなりません。仏教とは他人のことではなく、自分の問題だからです。そのことを本願寺第8代蓮如上人(1415-1499)は、
「仏法には明日と申す事、あるまじく候う」
と仰いました。亡き方々をご縁として、私にかけられた仏さまの願いに耳を傾けてみませんか?信行寺では毎月仏さまのお話を聞くことができます。お寺とは自分の願いごとを仏さまに聞いてもらう場所ではなく、仏さまの願いを、私が聞かせていただく聞法の場所なのです。
合掌
相手の不幸ではなく お互いの幸福に よって生きたい
喜劇王チャップリン
住職的
「7月の標語」解説
今月は喜劇王とよばれるチャップリン(1889~1977)の言葉です。皆さんは他人の成功を心から喜ぶことができるでしょうか。仏教には「隨喜(ずいき)」という言葉があります。近頃ではほとんど使われなくなりましたが、以前は「隨喜の涙を流す」など、目にしたり耳にしたりしたものです。
「随喜」はもともと仏陀や菩薩の善なる行為を褒めたたえるということですが、そこから他者の喜びごとを心から喜ぶという意味で使われます。例えば職場の同僚が好成績を出したとき、「ああ、本当におめでとう!」と言うことですね。他人のうれしいこと、喜んでいることを自分自身が心から喜ぶ。実はこれがなかなかできないのです。人間がもつ煩悩のひとつに「ねたみ」というものがあります。
いわゆる「嫉妬」です。口では「おめでとう!」と言っても、心の中では「何であんただけ…」というような気持ちが沸いたり、逆に他人が失敗すると安心したりする自分がいたりしないでしょうか。
インドと中国の間にブータンという小さな国がありますが、ここはチベット仏教を国教とする仏教国す。そのため人々の信仰は熱く、全て仏教の教えに従って社会が動いています。ブータンは「幸せ国」とよばれ、国民のほとんどが「いまが幸せ」と感じているそうです(国別の幸福度調査があるしく、1位のブータンに対して日本は80位以下だとか…)。なぜブータンの人は幸せを感じるのかその理由を私(住職)の友人がブータンへ旅行した際に、現地の人に聞いたそうです。すると返ってたのが「家族や友人が幸せそうだから」という答えだったというのです。すごいですね。ブータンのたちにとって「幸せ」の中心は自分ではなく、「家族や友人」なのです。私はこの話を聞いたときに分が恥ずかしくなりました。
日常生活の中で周りに喜んでいる人がいるとしたならば、そのことを「本当によかったね!」とたった一言かけるだけでお互いが気持ちよくなれます。「個人主義」がますます加速し、大切なことを失いつつある現代ですが、身近なことから少しずつ実践していければいいなと思います。
合掌
美しい景色を探すな。 景色の中に美しいものを見つけるのだ。
ゴッホ(画家)
住職的
「6月の標語」解説
今月の掲示板は世界的に著名な画家、ゴッホ(1853~1890)の言葉です。今でこそ世界中のひとに知られていますが、生前は無名の画家で、生涯に売ることができた絵はわずか1枚のみだったそうです。
さて、仏教には「少欲知足(しょうよくちそく)」という言葉があります。「欲を少なくして、満足することを知る」という意味です。これまでの日本では物質的に豊かな生活の中にこそ幸せがある、と信じられて邁進してきました。
それゆえ現代は物が豊かになり、科学技術も発達したことで、私たちの生活はより便利で快適なものとなりました。しかし一方で、現代ほど人の心が荒廃した時代もありません。
それは物質的な豊かさが人の心を豊かにするわけではないことを意味します。むしろその逆で、人間の欲望は充足すればまた新たな欲望を生み出し、無限にふくらんでいきます。お釈迦さまはそのような人間がもつ欲望こそが、あらゆる苦しみ・悩みを生み出す原因であると説かれました。
私たちは「ない」ものに目を向けがちで、「ある」ものにはあまり目を向けようとしません。そうなると、どうしても不平不満が多くなります。しかし「ある」ものに目を向けたならば、私のいのちを支えてくださっている様々な存在が見えてきます。そのような気づきの中で「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」という感謝の心が与えられていくのでしょう。
「幸せは与えられるものではなくて、日々の生活の中に気が付いていくものである」、これはかつてある方から教えていただいた言葉ですが、今月のゴッホの言葉も同じようなことを意味しているように思えます。ものごとの見方をすこし変えるだけで、見える景色も変わってきます。「少欲知足」を実践していくことはなかなか難しいですが、いきなり変わるということではなく、少しずつ「お陰さま」に気づかせていただくことが大切です。「ない」ものを嘆くのではなくて、今「ある」ものに感謝をさせていただく。幸せ(美しい景色)とは、そういった日々の暮らしの中にあるのではないでしょうか。
合掌
住職的
「5月の標語」解説
先月、吉本新喜劇でお茶の間を沸かせてくれた、チャーリー浜さんがご往生されました。謹んで哀悼の意を表します。
チャーリー浜さんの代表的なギャグは「じゃ、あ~りませんか」ですが、もう1つ「君たちがいて僕がいる」というフレーズもあります。それを今月の掲示板に書かせていただきました。実はこのフレーズ、「縁起」という仏教の基本的な教えに通じる大切な言葉なのです。
わかりやすくチューリップの花で例えてみましょう。まず、球根が原因だとすると、花は結果です。チューリップの花は球根から咲きますが、球根だけでは花は咲かず、温度・土質・水分・肥料・日光・人間の細心の手入れなど、さまざまな条件(縁)が球根にはたらいて花は咲くのです。
このように、あらゆるものが生じているという結果の背景には、必ずそれを生んだ原因(因)と条件(縁)とがあり、それを「因縁生起(いんねんしょうき)」といいます。そしてこの言葉を省略して「縁起」というのです。現実には、因と縁と果とが複雑に関係しあい影響しあって、持ちつ持たれつの状態をつくっています。
『阿含経(あごんきょう)』というお経には、
此れあれば彼あり、此れ生ずるが故に彼生ず、此れなければ彼なし、此れ滅するが故に彼滅す。
とあります。これは、全てのものはお互いに深く関わり合いながら成立しており、完全に独立して存在しているものは無いことを意味しています。人間同士の関係も、すべて「縁」によってつながっています。まさに「君たちがいて僕がいる」という言葉に通じているのです。
日常、よく「縁起が良い・悪い」という言葉を聞きます。吉凶の兆しという意味なのでしょうが、本来は他の多くのモノの力・恵み・お陰を受けて、私たちは生かされているという、仏教の基本的な教えなのです。そして、私を支えてくださっているあらゆる「お陰さま」に気づき、感謝させていただくことが浄土真宗における、お仏事(法事)の大切な意味でもあるのです。
合掌
住職的
「4月の標語」解説
何でも器用にこなせる人に憧れたりしますよね。なんで自分にはできないのだろう、自分ももっと華やかな色に輝くことができたらいいのに…と思い悩んだりすることがあります。しかし、誰もが自分にしか出せない色(個性)をもっているはずです。
『仏説阿弥陀経』というお経に、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。これは阿弥陀如来がおられる極楽浄土に咲く蓮華のついて説かれた一説で、「青色の蓮華は青色に輝き、黄色の蓮華は黄色に輝き、赤色の蓮華は…(以下同様)」という意味です。
もしかすると「青色の花が青色に輝くなんて当たり前じゃないか」と思うかもしれませんが、私たちは当たり前のことを当たり前にみることができない生き方をしています。本来、青色の個性をもった人に対して赤色になるよう求めるために争いが起こり、自身も赤色の個性があるにもかかわらず、白色に輝こうとするから時にツラさや苦しみを感じることがあるのではないでしょうか。仏さまがご覧になっている世界は、私たち1人ひとりが尊いいのちの色を輝かせているというのが、先の『仏説阿弥陀経』の言葉なのです。
タンポポが、チューリップやバラの花を咲かせることは不可能です。タンポポはタンポポ、バラはバラです。しかしタンポポがいのち一杯自分の花を咲かせていることは素晴らしいことで、他の花と何ら遜色はありません。
「小さきは小さきままに花咲ける 野辺の小草の安けきを見よ」という詩がありますが、たとえ小さくても、太陽の光に照らされ精一杯自分の花を咲かせていることは素晴らしいことです。人に知られようが、知られまいが、何の不平もなく安らぎに満ちています。
月に向かって「何故あなたはそんなにも美しく輝いているのか」と聞くと、きっと月は「私は黒い塊だが、太陽の光によって輝いているんだ」と答えるでしょう。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、「石・瓦・礫のようなものでも、光に遇うと金のように輝く」と述べられています。
私たちは自己中心的に生き、他人の目を気にして自分を飾り、比較して思いあがったり、落ちこんだりして虚しい日々を過ごしていますが、仏さまの教えを聞き、阿弥陀さまの光に遇うことで「私が私であって良かった」と、いのちを輝かせて生きることができるのです。
合掌
りっぱすぎる決心は きっと三日坊主に なるから
ドラエモン
住職的
「3月の標語」解説
仏教には「中道(ちゅうどう)」という教えがあります。これはひとつの物事に対して極端に偏ってはならないという、お釈迦さまが説かれた教えです。快楽の道と禁欲の道…私たちは、時にどうしても突きつめて物事を見たり、考えたりしてしまいます。心地良い暮らしに慣れ親しむと、次から次へと欲が生まれ、深まってゆく。
それじゃあいけないと思い立って、今度は何でもかんでも欲を減らそう、自分を律して、あれもこれも思いつくものはすべて抑えて、ストイックに自分を追い込んでゆく。コロナ前のグルメブームや健康ブームは、まさにそうしたことを象徴していたように思えます。
お釈迦さまの教えは、快楽をむさぼるだけでもダメ。禁欲して自分を追い詰めるだけでもダメ。快楽と禁欲、この両端を乗り越えてバランス良く、生きてゆかなければ、人間が本来もとめる真理を見る目が養われないと語るのです。
ある日お釈迦さまは、ソーナという弟子に対してこのような問いかけをしました。
釈「ソーナ。あなたは出家する前、琴を弾くのがとても上手だったらしいですね?」
ソ「その通りです」
釈「琴を弾く時、弦が硬いと良い音は出ますか?」
ソ「いいえ。良い音は出ません」
釈「では、弦が緩いと良い音がなるんですね?」
ソ「いいえ、単に緩くすれば良いというものでもありません」
釈「では、一体どうしたら良い音がなるというんだね?」
ソ「あまり緩めすぎてもいけません。張りすぎてもいけません。強すぎず、弱すぎず、琴と弦の具合を見て、しっかり調整しなければ本当に良い音はでません」
そこでお釈迦さまは、にこりと笑みを浮かべました。
釈「ソーナ、まさしくあなたが今言ったように、精進するのも張りつめすぎると、気持ちが高ぶってしまいます。また反対に、緩みすぎても人を怠惰に貶(おとし)めるのですよ」
その言葉を聞いたソーナも笑みを浮かべて喜び、この琴弦の喩えの教えをしっかりと受けとめました。
お釈迦さまは「中道」の教えを、琴弦の喩えを通して示されました。高い志を持つことは大切なことですが、無理しすぎると心身が先に疲弊してしまいます。いま自分ができることを無理せず、少しずつ実践していくことが目標への近道かもしれません。
合掌